三日月ヘンリーの奇妙な事件簿
〜ホー・チ・ミン市のミラーボール篇〜



 新宿コマ劇場向いのビル群。大型家電量販店とアミューズメント施設のはでな看板が目につくが、その間に小さな雑居ビルが居づらそうに挟まっている。三階建ての地味なビル……入り口が通りに面しておらず、入るには大型家電量販店側の路地に入らねばならない。それがまた地味さを強調していた。

「三日月ヘンリー探偵事務所」はそのビルの一階にあった。津島少年は、彼のクローゼットから一番上等なワイシャツにベスト、コーデュロイのスラックスでこのビルへと訪れた。ただし、靴だけは昨日さんざんゴミ捨て場で嘔吐した時と同じボロ靴であったが。

 約束の時間まで一時間弱ある。津島少年は、探偵事務所の場所を確認だけすると、踵を返し、雑踏をかいくぐって近場のそば屋を訪れた。カレーライスも置いているような向上心に欠けるそば屋である。

「いらしゃっせぇー」

 労働者や水商売や二日酔いとその他大勢、昼時の客で店は混雑していた。最寄のテーブルに座る。右斜めの席には気弱そうなブルーカラーが縮こまってざるそばをすすっている。男は津島少年をちらりと見、店員がやってくるとまたざるそばを体内に流し込む作業に戻った。

「ご注文は?」
「かも南蛮」
「すいません、それ冬場だけのメニューなんです」
「じゃあ、鴨せいろ」
「かしこまりました」

 厨房に小走りで戻る店員。
 何分ほど立ったか。相席だったブルーカラーはすでに店を出た。壁際に設置されたテレビの時刻表示を見る。食べる時間をいれても間に合わない時間ではない。

「いらしゃっせぇー」

 出入りの激しいかきいれ時、既に何人もの客が出入りしている。何人目かの客が、のっそりと津島の斜め向かい(つまり、先ほどまでブルーカラーが座っていた席)に座った。

 津島は相席の男に目を奪われた。相席の男は……逆三角形の大柄な体躯を黒のタイトなダブルスーツに包んでいる。そこまではいい。

 男の首から上には、三日月が乗せられていた。その顔の輪郭は鋭い三日月のフォルムをかたどっていた。三日月の中央に皿のような丸い目を眠たげに開けている。口の端をやや歪めた表情はやや不満げだ。

 しかして、津島少年はすぐに冷静になった。白けたと言ってもいい。これはマスクだ。三日月型の。このような仮装マスク的コスチュームは何年かのサイクルで流行している。この国のファッションは年々、悪趣味なものと過剰に伝統に固執するもの、両極端に深く深く発展していく。三日月マスクもその悪趣味ファッションのひとつだと判断できた。

 三日月マスクの悪趣味男は興味も無さそうに、津島の顔を見た。すぐさま店員がやって来る。

「ご注文は?」
「うーん……いつもので」
「かしこまりました」

 マスク男は粘っこい声で注文した。常連のようである。
 マスク男は店員が去ると、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、吸い始めた。禁煙派と喫煙派がテロリズム集団と化し、最終的に喫煙派が勝利したのはほんの数年前の事である。以来、それまでの反動のように、喫煙者は何のためらうことも無く、あらゆる場所で煙を楽しむようになったのだ。ゆるやかな自殺の快楽である。

 五分ほどして、津島の注文した鴨せいろが運ばれて来た。

「おまたせしました」
「おっ、来た来た」
「え、あ、え?」

 津島はとまどった。店員が、自分に運んできたはずの鴨せいろの器を、マスク男が素早く手に取り、素早く割り箸を割り、素早くひとくち目をすくいあげたのだ。

「ちょ、ちょっとあんた」
「ん?何?」

 津島が「ちょっと」と言った時点でマスク男は鴨せいろのひとくち目をすすり、「あんた」と言った時点でふたくち目をすすり、軽くコップの水で唇を潤してから津島の方へ視線をやった。
「それは僕が頼んだんすけど」
「ええ?君、鴨せいろなんて頼むの?若いのに」

 男は会話を続けながらもずるずると麺を飲みこむ。盆を持った店員も困惑顔で、マスク男と津島を交互に見た。

「いや、とにかく、それを先に頼んだのは、僕、僕っすから」
「はあ。それはごめん」
「ごめんとかじゃなくて……それは僕のですって」
「いやでも、もう口つけちゃったしさ、ねえ」

 マスク男は悪びれるでもなく、そのまま鴨せいろを食べ続けた。津島は空腹も伴って、男の不誠実さに対してめらめらと怒り始めた。

「あんたおかしいだろ。マナーってもんが無いじゃないか」
「いやだから、悪かったって。うん。俺も確認が足りなかったと思うよ。うん。でも、あれじゃん、君はその、俺が頼んだ方の鴨せいろ食べてくれれば……」
「なんであんたより先に頼んだ俺が後に食べなきゃいけないんだ」

 怒りの余り彼は一人称が僕から俺へ変じた。マスク男は気の毒そうな顔と面倒臭そうな顔と鴨せいろの美味しそうな顔を繰り返しながら、津島を眺めた。ここでやっと、マスク男はひとまず食べるのをやめた。
 津島はテレビの時計を見る。もう次の鴨せいろができる時間を待てそうにもない。彼は三日月マスクに反抗した。


「むちゃくちゃじゃねえか。あんた何ん何んだよ」
「いやいや、悪かったって。ごめん。兄ちゃん、怒るなよ。」
「うるさい、馴れ馴れしい」
「何んだよ……こっちだって謝ってるじゃないか、心の狭い」
「誰が狭心症だ」
「いやだからさ、もう俺が二口も三口も食っちゃってる訳じゃん。そんなの今さら『お返しします』って言えないでしょ?ね」
「も、もうそんなこと言ってるんじゃあないんだよ。間違って食ったのはともかく、その後のあんたの態度が……」
「わかった、わかった。やるよ。譲ればいいんだろ?はいどうぞ、すいませんでした、って」

 ほれ、とマスク男は食べかけた鴨せいろと割りばしを差し出した。
 津島は小鼻をしかめた。ぷん、と匂う煙草の匂い。彼は嫌煙者ではない。しかしニコチン臭い食品を好んで食べられるほどの食通でもなかった。

「い……いらねえよ、こんなもん」
「わからない奴だな、いらないのかよ」
「ヤニ臭いんだよ、食えるかそんなもの。もういい、もういい!」

 津島は怒りで立ち上がった。しかしその後の行動が思い浮かばなかった。とりあえずマスク男のしらけた顔を睨みつけ、イスを蹴飛ばす真似をし、店を出ることにした。
 鴨せいろ以外の、もっと簡単なメニューなら、まだ充分に食べられるだけの余裕はあった。その事は彼の意識のすみにも、ちら、とあった。だが立ち上がった以上、また座り直して注文するというのも、ぶざまな話である。結局彼は勢いと意地という、腹の足しにまったくならない感情から店を出たのだ。
 その背中に、マスク男の「おーい、おーい」という呼び止めの声を受けながら。